人はよく「愛されたい」と言う。
必要とされたい。特別になりたい。誰かにとって、かけがえのない存在になりたい。
それはとても自然な感情だと思う。
でも最近、僕が本当に欲しいのは、愛ではなく自由なのかもしれないと思う。
愛されることよりも、自分の人生を自分で決められること。
誰かに必要とされることよりも、自分がどこへ向かうのかを自分で選べること。
僕が求めているのは、そういうものなのかもしれない。
愛には、条件がついてくる
人と深く関われば、そこには期待が生まれる。
もっと連絡してほしい。
自分を優先してほしい。
そばにいてほしい。
変わらないでほしい。
いつの間にか「愛している」という言葉の中に、「こうしてほしい」が混ざってくる。
それが悪いわけではない。人と関わる以上、期待が生まれるのは自然なことだと思う。
ただ僕は、誰かの期待に応えるためだけに生きたいわけではない。
相手を大切にすることと、自分の人生を明け渡すことは違う。
その境界を失いたくない。
愛は外にあり、自由は自分の中にある
愛には、必ず相手がいる。
自分がどれだけ愛していても、相手が同じように愛してくれるとは限らない。どれだけ大切にしても、関係が続くとは限らない。
愛は、自分一人では完結しない。だからこそ美しいのだと思うし、同時に不確実でもある。
でも自由は違う。
何を自由と呼ぶのかは、自分で決められる。
自由は必ずしも、十分なお金を持つことではない。
もちろん、お金は選択肢を増やしてくれる。働く場所を選べる。住む場所を選べる。嫌な環境から離れやすくなる。
でも、お金を持っていても、他人の評価に縛られている人はいる。
断りたいのに断れない。嫌われることが怖くて、自分の意見を言えない。周囲が望む人生を、自分の人生だと思い込んでいる。
それを自由と呼べるだろうか。
逆に、大金を持っていなくても、自分の時間を自分で決められる人がいる。誰と関わるかを選べる。一人になることを選べる。何を大切にするかを、自分で決められる。
僕にとって自由とは、何を持っているかではない。自分の人生の基準を、自分の中に置いておけることだ。
愛されているかどうかは、僕一人では決められない。
でも、自分がどう生きるかは決められる。
だから僕は、愛よりも自由に惹かれるのだと思う。
好きでも、離れたいときがある
好きなのに、一人になりたい。
大切なのに、距離を取りたい。
愛しているのに、縛られたくない。
一見すると、矛盾しているように見える。でも本当は、矛盾ではないのだと思う。
人を好きになることと、自分の人生を自分で選びたいことは、同時に存在できる。
「好きなら、いつも一緒にいたいはず」「愛しているなら、すべてを共有したいはず」。そんな考え方は、誰かがつくった愛の型にすぎないのかもしれない。
人には、それぞれの距離がある。
近づきたいときもあれば、離れたいときもある。その距離まで自分で決められることが、僕にとっては大切だ。
大切なのは、強さではなく向き
ここで、人生をベクトルで考えてみる。
依存する愛
自由な愛
依存的な愛では、二人のベクトルが相手の中心へ向かって収束していく。
人生の中心が相手になる。相手が笑えば嬉しい。相手が離れれば不安になる。そして相手がいなくなれば、自分の進む方向まで分からなくなる。
軸を、自分の外側に置いているからだ。
自由な関係は、少し違う。
それぞれが自分の方向へ進んでいる。その二つの線が並走することもあれば、近づくこともある。離れることもある。そして、ときどき交差する。
大切なのは、二人がまったく同じ方向へ進むことではない。
むしろ、それぞれに自分の方向があるからこそ、交わることに意味が生まれる。
関係の質を決めるのは、愛の強さだけではない。その愛が、どこへ向かっているのかだ。
相手を自分のところへ引き寄せようとする愛なのか。
それとも、相手が自分の人生を進むことを認められる愛なのか。
僕は、人生の中心に自分を置いていたい。
恋愛は人生の中にあればいい。恋愛の中に、人生のすべてを入れるのではなく。
「必要とされること」に依存しない
人から必要とされると、自分に価値があるように感じる。愛されると、安心する。
だからいつの間にか、「この人を失ったら、自分には何も残らない」と思ってしまうことがある。
でもその瞬間、自分の価値を誰かの愛情に預けてしまっている。
相手が愛してくれれば、自分には価値がある。相手が離れれば、自分には価値がない。
そんな状態では、自分の人生の評価まで他人に委ねることになる。
誰かに愛されなくてもいい、という話ではない。
愛されることは嬉しい。必要とされることも嬉しい。
ただ、それが自分の存在価値そのものになってしまうのは違うと思う。
誰かに愛されなくても、自分は残る。誰かに必要とされなくても、人生は続く。
そう思えるからこそ、人を自由に愛せる。
「あなたがいないと生きられない」ではなく、「一人でも生きられる。でも、あなたといたい」。
そう言える関係のほうが、僕には美しく見える。
止まらないことが、自由
自由とは、一人になることでも、責任を捨てることでもない。
今日は誰かといたい。
明日は一人でいたい。
何かに夢中になりたい。
突然、知らない場所へ行きたい。
一日中、何もしたくない日もある。
そのときの自分が望む方向へ、自分で動けること。
僕にとって自由とは、そういうものだ。
そしてもう一つ。自由とは、同じ場所に永遠にとどまらないことでもあると思う。
人は、ときどき極端に振れる。仕事だけに没頭する時期がある。誰かとずっと一緒にいたい時期がある。逆に、誰とも会いたくない時期もある。
僕は、それでいいと思う。
全てはバランスだと言われる。確かにそうだと思う。
ただ、常に真ん中にいることがバランスなのではない。
大きく片方に振れてもいい。必要なのは、そこに永遠に居続けないことだ。
極に居続けるのでも、真ん中に固定されるのでもなく、動きながら自分の位置を選び直す。
ショーペンハウアーは、人生を苦痛と退屈の間を揺れ動く振り子になぞらえた。
苦痛から逃れれば退屈が待ち、退屈から逃れようとすれば、また欲望や苦痛が生まれる。
僕はそこに、少し違う意味も感じる。
振れ続けることそのものが、生きることなのではないか。
ただし、どんな変化でもいいわけではない。
強いられた変化は、自由ではない。
誰かの都合で動かされる。望んでいない場所へ連れていかれる。自分の意思とは関係なく、人生の方向を決められる。
それは変化ではあっても、自由ではない。
大切なのは、変わることそのものではない。変化の中で、選び続けられること。
どこまで振れるのか。どちらへ向かうのか。いつ戻るのか。そして、もう一度どこへ向かうのか。
それを自分で決められること。
それが、僕の言う自由だ。
愛から逃げたいわけではない
だからといって、愛を否定したいわけではない。
むしろ、自由な人間同士だからこそ生まれる愛があると思う。
相手を所有しない。
相手を変えようとしない。
離れている時間を恐れない。
相手の人生の選択を奪わない。
「私のものになってほしい」ではなく、「あなたがあなたでいてくれればいい」。
そう思えること。
そして相手にも、「あなたも、あなたのままでいていい」と思ってもらえること。
自由と愛は、反対側にあるものではないのかもしれない。
自由があるからこそ、愛は選択になる。
縛られているから一緒にいるのではない。
一人でも生きられるのに、それでも一緒にいる。
そのほうが、僕にはずっと深い愛に見える。
愛ではなく、自由を求める
若い頃は、愛されることが幸せなのだと思っていた。
誰かに選ばれること。誰かに必要とされること。誰かにとって特別になること。
でも今は、それだけでは足りない。
僕が求めているのは、誰かに人生を満たしてもらうことではない。
自分の人生を、自分の意志で生きられることだ。
何を幸せとするのか。誰といるのか。何を手放すのか。どこへ向かうのか。
その基準を、自分の外側ではなく、自分の中に置いていたい。
その自由の中で出会った誰かと、一緒に歩けたらいい。
依存ではなく、選択として。義務ではなく、意志として。孤独を埋めるためではなく、人生を分かち合うために。
だから僕は、愛よりも自由を求めたい。そしてもし愛するなら、お互いの自由を奪わない愛を選びたい。