「音楽を習うと、頭が良くなる」。一度は耳にしたことがある話だと思います。
もしそれが本当なら、音楽はとても分かりやすい投資です。ピアノを習えばIQが上がる。演奏すれば学力が伸びる。そう言えたら、音楽の価値を数字で説明できます。
けれど研究が積み重なるにつれて、その物語はかなり弱くなってきました。
一方で、音楽には別の価値が残っています。快感、感情の調整、人とのつながり、健康関連の生活の質。 これらは「頭が良くなる」とは違う種類の豊かさです。
音楽の価値は、賢くなること以外の場所にあるのかもしれない。
1. 好きな音楽は、脳の報酬系に触れる
好きな曲を聴いて、背筋がぞくっとした経験はないでしょうか。
BloodとZatorreは、強い快感を生む音楽を聴いているとき、報酬・動機づけ・感情に関係する脳領域の活動変化を報告しました。[1]
さらにSalimpoorらは、音楽による強い感情反応の最中に、線条体で内因性ドーパミンが放出されることをPETで示しました。加えて、曲の盛り上がりを予期している段階では尾状核、実際に感情のピークを経験する段階では側坐核がより関与するという機能的な違いも報告しています。[2]
つまり音楽の快感は、「音が鳴った瞬間」だけにあるわけではありません。
次の展開を待つ。サビが来ると分かる。少しずつ緊張が高まる。その期待そのものにも、報酬の仕組みが関わっています。
2. 音楽は、感情を扱う道具になる
音楽は、気分を変えるためにも使われています。
SaarikallioとErkkiläは青年の音楽利用を質的に調べ、娯楽、気分の回復、強い感情の喚起、感情の整理など、音楽を使った複数の気分調整のパターンを整理しました。[3]
また、悲しい音楽なら何でも心を整えてくれるわけでもありません。
GarridoとSchubertの研究では、参加者が自分で選んだ悲しい音楽を聴いた後、気分の落ち込みが増える傾向が観察されました。反すう傾向との関係も検討され、悲しい音楽が一部の人には不適応的な気分調整と結びつく可能性が指摘されています。[4]
だから大切なのは、「悲しい曲を聴くべきか」ではありません。
聴いたあと、自分の状態がどう変わっているか。 音楽は感情を動かす道具だからこそ、使い方によって方向も変わります。
3. 一緒に音楽をすることは、人との距離を縮める
音楽の価値で、個人的な快感と同じくらい興味深いのが、社会的な側面です。
KirschnerとTomaselloの実験では、4歳児が一緒に音楽を作ったあと、音楽なしの統制条件と比べて、自発的な協力や援助行動が増えました。[5]
大人の集団歌唱でも、似た方向の結果があります。
地域の合唱団を対象にした研究では、90分の歌唱後に、参加者が感じる社会的な近さ、つながり、ポジティブ感情が増加しました。特に大人数の「メガ合唱」では、社会的な近さの変化がより大きくなりました。[6]
また、Dunbarらの研究では、歌う・踊る・ドラムを叩くといった能動的な音楽活動の後に痛覚閾値とポジティブ感情が上がりました。一方、受動的に音楽を聴くだけの条件では同じパターンが見られませんでした。[7]
ここから直接「エンドルフィンが社会的絆を作る」と断定することはできません。ただ、音楽を誰かと一緒に行うことには、一人で聴くのとは違う社会的な働きがあることが分かります。
音楽は、聴くものだけではない。
人と同じ時間を作るものでもある。
4. 健康やウェルビーイングには、どこまで言えるか
健康については、少し慎重に整理する必要があります。
WHOヨーロッパ地域事務局は2019年、芸術活動と健康・ウェルビーイングに関する3000件以上の研究をまとめたスコーピングレビューを公表しました。予防・健康増進から疾患管理まで幅広い領域で、芸術活動が関わりうることを整理しています。[8]
ただし、これは音楽だけを対象にしたレビューではなく、美術、舞台芸術、文化活動なども含む「芸術全般」の報告書です。
音楽に絞った研究では、2022年の系統的レビューとメタ分析が参考になります。26研究・779人をまとめた結果、音楽聴取、音楽療法、歌唱などの介入は、健康関連QOLの精神面の改善と関連していました。通常治療に音楽介入を加えた比較でも、精神面のQOLに有意な改善が見られました。[9]
一方で、介入の種類や参加者にはかなり幅があり、「どの音楽を、どれだけやればよいか」までは決められていません。
うつ病については、Cochraneレビューで、音楽療法を通常治療に追加した場合、短期的な抑うつ症状の改善が示されました。主要な比較では中程度の質のエビデンスと評価されています。ただし対象研究は9件・421人と大きくはなく、心理療法との直接比較については不確実性が残ります。[10]
5. それでも、「頭が良くなる」はかなり怪しい
ここで冒頭の話に戻ります。
2004年、Schellenbergは144人の子どもを音楽レッスン、演劇、無介入などに無作為に割り付け、音楽レッスン群でIQの上昇が対照群より大きかったと報告しました。効果は小さいながら、当時は「音楽レッスンがIQを上げる」研究として大きな注目を集めました。[11]
しかし、その後の研究では、話はかなり慎重になります。
Mehrらは就学前児を対象に2つのランダム化試験を行いましたが、短期間の音楽教育が、空間認知・数的能力・語彙など音楽以外の認知能力を一貫して改善する証拠は得られませんでした。[12]
さらに2020年のメタ分析では、54研究・254効果量・6984人を対象に検討した結果、研究デザインの質を考慮すると、音楽訓練から音楽以外の認知能力や学業成績への転移効果はほぼゼロと結論づけられています。[13]
| 領域 | 現在の見方 |
|---|---|
| 音楽による快感・報酬反応 | 神経科学的な証拠がある |
| 気分調整 | 日常的利用はよく報告されるが、効果は使い方・個人差に依存 |
| 共同音楽活動と社会的つながり | 実験・集団研究で支持する結果がある |
| 健康関連QOL | メタ分析で精神面の改善を支持する中程度の証拠 |
| IQ・学業への広い転移 | 質の高い研究では、ほぼ支持されない |
6. 「音楽をする子は賢い」と「音楽が賢くした」は違う
音楽経験が長い人ほど、認知能力が高いという相関研究はあります。
しかし、そこで問題になるのが選択バイアスです。
Corrigallらは、音楽訓練を受ける人・長く続ける人の違いを調べ、認知能力だけでなく性格、とくに経験への開放性なども音楽経験と関連することを報告しました。[14]
つまり、音楽を続けている子どもは、最初から家庭環境、認知特性、性格などが違う可能性があります。
「音楽経験者の成績が高い」という観察だけでは、音楽が成績を上げたのか、そういう子が音楽を選びやすいのかを分けられません。
7. 音楽は、役に立たなくても価値がある
ここまでの研究を読むと、少し不思議なことに気づきます。
私たちは音楽の価値を説明するとき、「頭が良くなる」「健康になる」「仕事に役立つ」と、別の成果へ変換したくなります。
もちろん、そうした効果を調べることには意味があります。
でも、音楽の中心にある価値は、もっと直接的なのかもしれません。
好きな曲が流れた瞬間に、気持ちが動く。誰かと同じ歌を歌う。何年も前の記憶が、一つのイントロで戻ってくる。
それはIQの上昇とは別のものです。
結論:頭は良くならなくても、残るもの
「音楽は人生を豊かにするか」という問いに、科学だけで一つの数字を返すことはできません。
それでも、研究から見えるものはあります。
- 音楽は報酬系と結びついた強い快感を生みうる
- 感情を扱うための個人的な道具として使われている
- 一緒に歌う・演奏することで、社会的なつながりが生まれうる
- 音楽介入は、健康関連QOLの精神面の改善と関連している
- 一方、音楽訓練がIQや学力を広く高めるという主張は、質の高い研究ではほとんど支持されない
音楽の価値は、
役に立つことだけでは測れない。
頭を良くするために音楽をやる必要はありません。
心が動く時間があること。誰かと同じリズムを共有できること。何年後かに、その曲を聴いて今日を思い出せること。
そういうものが人生の豊かさに含まれるなら、音楽には十分すぎるほど、残るものがあります。
参考文献
- Blood, A. J., & Zatorre, R. J. (2001). Intensely pleasurable responses to music correlate with activity in brain regions implicated in reward and emotion. Proceedings of the National Academy of Sciences, 98(20), 11818–11823.
- Salimpoor, V. N., Benovoy, M., Larcher, K., Dagher, A., & Zatorre, R. J. (2011). Anatomically distinct dopamine release during anticipation and experience of peak emotion to music. Nature Neuroscience, 14(2), 257–262.
- Saarikallio, S., & Erkkilä, J. (2007). The role of music in adolescents' mood regulation. Psychology of Music, 35(1), 88–109.
- Garrido, S., & Schubert, E. (2015). Moody melodies: Do they cheer us up? A study of the effect of sad music on mood. Psychology of Music, 43(2), 244–261.
- Kirschner, S., & Tomasello, M. (2010). Joint music making promotes prosocial behavior in 4-year-old children. Evolution and Human Behavior, 31(5), 354–364.
- Weinstein, D., Launay, J., Pearce, E., Dunbar, R. I. M., & Stewart, L. (2016). Group music performance causes elevated pain thresholds and social bonding in small and large groups of singers. Evolution and Human Behavior, 37(2), 152–158.
- Dunbar, R. I. M., Kaskatis, K., MacDonald, I., & Barra, V. (2012). Performance of music elevates pain threshold and positive affect: Implications for the evolutionary function of music. Evolutionary Psychology, 10(4), 688–702.
- Fancourt, D., & Finn, S. (2019). What is the evidence on the role of the arts in improving health and well-being? A scoping review. WHO Regional Office for Europe.
- McCrary, J. M., Altenmüller, E., Kretschmer, C., & Scholz, D. S. (2022). Association of music interventions with health-related quality of life: A systematic review and meta-analysis. JAMA Network Open, 5(3), e223236.
- Aalbers, S., Fusar-Poli, L., Freeman, R. E., et al. (2017). Music therapy for depression. Cochrane Database of Systematic Reviews, Issue 11, CD004517.
- Schellenberg, E. G. (2004). Music lessons enhance IQ. Psychological Science, 15(8), 511–514.
- Mehr, S. A., Schachner, A., Katz, R. C., & Spelke, E. S. (2013). Two randomized trials provide no consistent evidence for nonmusical cognitive benefits of brief preschool music enrichment. PLoS ONE, 8(12), e82007.
- Sala, G., & Gobet, F. (2020). Cognitive and academic benefits of music training with children: A multilevel meta-analysis. Memory & Cognition, 48, 1429–1441.
- Corrigall, K. A., Schellenberg, E. G., & Misura, N. M. (2013). Music training, cognition, and personality. Frontiers in Psychology, 4, 222.