起きる。電車に乗る。働く。帰る。眠る。また起きる。ある朝ふと、「これをあと何十年続けるのか」と思う。
「神は死んだ。それでも、なぜ生きるのか。」では、生きる意味が最初から与えられていないなら、どう生きるのかを考えた。その問いに、真正面から向き合った作家がいる。フランスの作家、アルベール・カミュだ。
岩を運び続ける男
ギリシャ神話のシーシュポスは、神々を欺いた罰として、大きな岩を山頂まで押し上げることを命じられた。ところが、岩は頂上に着く直前に転がり落ちる。彼はまた下りていき、最初から押し上げる。それが永遠に続く。
意味のない労働を、終わりなく繰り返す。考えうる中で最もつらい罰の一つだと思う。
カミュは1942年の『シーシュポスの神話』で、この男の姿を、人間の生き方そのものに重ねた [1]。
「不条理」とは何か
カミュがこの本で考えたのは、「人生は生きるに値するのか」という問いだった。そこで彼が使ったのが、「不条理」という言葉だ。
人間は、自分の人生に意味を求めずにはいられない。ところが世界は、その問いに何も答えない。意味を求める人間と、黙ったままの世界。その食い違いが「不条理」だ [1]。
世界そのものが不条理なのではない。求める側と、答えない側。その二つが向き合ったところに、不条理が生まれる。
逃げずに、抗う
意味がないと気づいたとき、人はどうするのか。カミュは、その気づきが生きることを諦める理由にはならないと考えた。
かといって、「本当はどこかに意味が用意されているはずだ」という希望に飛びついて、問いをなかったことにするのでもない。カミュが選んだのは、意味がないことを知ったまま、それでも生き続けること。彼はそれを「反抗」と呼んだ [1]。
ごまかさずに見る。そのうえで、降りない。
シーシュポスは、幸せだと想像しなければならない
本の最後で、カミュはシーシュポスに戻ってくる。岩が転がり落ち、彼が山を下りていく、その時間に目を向ける。
シーシュポスは、自分の運命が無意味だと知っている。知ったうえで、また岩に手をかける。運命を嘆くのではなく、それを自分のものとして引き受ける。
頂上を目指す闘いそのものが、人の心を満たすのに十分だ。シーシュポスは幸せだと想像しなければならない。
本はこの一文で終わる(僕なりの訳) [1]。
僕たちの岩
毎日の仕事も、筋トレも、文章を書くことも、どこか岩を押し上げることに似ている。積み上げても、次の日にはまたゼロから始まる気がする。
でも、カミュの読み方をすると、見え方が少し変わる。岩が頂上に残ることが目的なのではない。押し上げているその時間が、自分の人生そのものだ。
「システムのないゴールは、動かない」で、結果ではなく毎日の行動を管理すると書いた。結果が思い通りにならなくても、今日やることは自分で選べる。その繰り返しを、罰ではなく、自分の仕事として引き受ける。
同じ毎日の繰り返しに、意味は用意されていないのかもしれない。
それでも、岩に手をかけるのは自分だ。
明日の朝、また岩を押し上げる自分を、少しだけ幸せだと想像してみる。
参考
1. Camus A. (1942). Le Mythe de Sisyphe(『シーシュポスの神話』). Paris: Gallimard.