神は死んだ。
それでも、なぜ生きるのか。
それでも、
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「神は死んだ。」
ニーチェの言葉として、あまりにも有名だ。
けれど、この言葉は単純に「神なんて存在しない」と言っているのではない。もっと恐ろしい問いを、私たちに突きつけている。
長い間、人間には「生きる理由」があった。神のため。家族のため。国家のため。社会のため。善く生きるため。正しい人間になるため。
そこには、自分より大きな何かが存在していた。そして、その大きな何かが、「こう生きるべきだ」「これには価値がある」と教えてくれた。
しかし、それらを絶対的なものとして信じられなくなったらどうなるのだろう。
ニーチェの「神は死んだ」という言葉の先には、この問題がある。
生きる意味は、どこにあるのか。
朝、起きる。仕事や学校へ行く。食事をする。スマートフォンを見る。誰かと話す。眠る。そして、また朝が来る。
それを何十年も繰り返す。でも、ある瞬間に立ち止まってしまう。
「そもそも、何のために?」
お金を稼ぐため? 幸せになるため? 家族をつくるため? 何かを成し遂げるため?
では、なぜ幸せになる必要があるのだろう。なぜ何かを成し遂げる必要があるのだろう。
その問いに「なぜ?」を繰り返していくと、いつか答えられない場所にたどり着く。
宇宙は、私たち一人ひとりに生きる目的を説明してくれない。生まれた瞬間に、「あなたが生きる意味はこれです」という紙を渡されるわけでもない。
それでも私たちは生きている。これは、不思議なことだと思う。
君は、なぜ生きている?
もし最初から決められた意味がないのだとしたら。
なぜ、今日も起きたのだろう。なぜ、誰かを好きになるのだろう。なぜ、何かを作るのだろう。なぜ、美しい景色を見ると立ち止まるのだろう。なぜ、好きな音楽をもう一度聴くのだろう。なぜ、明日の予定を立てるのだろう。
なぜ、生きる意味が分からないのに、私たちは生き続けているのだろう。
もしかすると、「生きる意味が存在しない」ということと、「生きる価値が存在しない」ということは、同じではないのかもしれない。
あらかじめ意味が決められていないからこそ、自分で意味をつくる余地が残されている。
何を見るのか。誰と生きるのか。何を愛するのか。何を作るのか。何を残すのか。
その一つひとつによって、自分の人生に意味が生まれていくのかもしれない。
僕はまだ答えを持っていない。だから、この記事も答えではない。これは問いだ。
このページを閉じたあと、ほんの少しだけ考えてみてほしい。
君は、生きる意味が分からないのに、なぜ今日も生きているのだろう。